「ディック・スレーター」の版間の差分
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タンパ大学時代は[[アマチュアレスリング|レスリング]]と[[アメリカンフットボール]]で活躍。フットボールのチームメイトには[[ポール・オンドーフ]]もいた。[[マイアミ・ドルフィンズ]]からのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人[[マイク・グラハム]]の仲介により、マイクの父[[エディ・グラハム]]が主宰する[[NWA (プロレス)|NWA]]傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)でデビュー。後年、ラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良として鳴らし、酒場で[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]に喧嘩を売って返り討ちにあったことから、それを知ったエディ・グラハムにスカウトされた」というサイドストーリーもつくられた。 |
タンパ大学時代は[[アマチュアレスリング|レスリング]]と[[アメリカンフットボール]]で活躍。フットボールのチームメイトには[[ポール・オーンドーフ]]もいた。[[マイアミ・ドルフィンズ]]からのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人[[マイク・グラハム]]の仲介により、マイクの父[[エディ・グラハム]]が主宰する[[NWA (プロレス)|NWA]]傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)でデビュー。後年、ラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良として鳴らし、酒場で[[ポール・ジョーンズ (プロレスラー)|ポール・ジョーンズ]]に喧嘩を売って返り討ちにあったことから、それを知ったエディ・グラハムにスカウトされた」というサイドストーリーもつくられた。 |
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[[ヒロ・マツダ]]のもとでトレーニングを行った後、[[1972年]]にプロレスデビュー。フロリダで[[テリー・ファンク]]とタッグを組んだ関係から、[[1974年]]にはファンク一家の一員としてテリーに帯同し[[全日本プロレス]]に初来日。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され、以降も同世代の[[ジャンボ鶴田]]の好敵手として活躍。[[1980年]]の第8回[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]では兄貴分のテリー、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ジャイアント馬場]]らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争い惜しくも敗れる。この時期は、スレーターの日本における絶頂期でもあった。 |
[[ヒロ・マツダ]]のもとでトレーニングを行った後、[[1972年]]にプロレスデビュー。フロリダで[[テリー・ファンク]]とタッグを組んだ関係から、[[1974年]]にはファンク一家の一員としてテリーに帯同し[[全日本プロレス]]に初来日。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され、以降も同世代の[[ジャンボ鶴田]]の好敵手として活躍。[[1980年]]の第8回[[チャンピオン・カーニバル (プロレス)|チャンピオン・カーニバル]]では兄貴分のテリー、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ジャイアント馬場]]らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争い惜しくも敗れる。この時期は、スレーターの日本における絶頂期でもあった。 |
2009年4月8日 (水) 11:42時点における版
ディック・スレーター | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ダーティー・ディック・スレーター ディック "ザ・レベル" スレーター |
本名 | リチャード・ヴァン・スレーター |
ニックネーム | 喧嘩番長(日本での異名) |
身長 | 185cm |
体重 | 117kg(全盛時) |
誕生日 | 1951年5月19日(73歳) |
出身地 | フロリダ州タンパ |
スポーツ歴 |
レスリング アメリカンフットボール |
トレーナー |
ヒロ・マツダ ジャック・ブリスコ |
デビュー | 1972年 |
引退 | 1996年 |
ディック・スレーター(Dick Slater、1951年5月19日 - )はアメリカ合衆国の元プロレスラー。本名:リチャード・ヴァン・スレーター(Richard Van Slater)。フロリダ州タンパ出身。
来歴
タンパ大学時代はレスリングとアメリカンフットボールで活躍。フットボールのチームメイトにはポール・オーンドーフもいた。マイアミ・ドルフィンズからのオファーもあったが、卒業後はハイスクール時代の友人マイク・グラハムの仲介により、マイクの父エディ・グラハムが主宰するNWA傘下団体・CWF(Championship Wrestling from Florida)でデビュー。後年、ラフファイターとしてのキャラクターイメージを活かすために「学生時代は不良として鳴らし、酒場でポール・ジョーンズに喧嘩を売って返り討ちにあったことから、それを知ったエディ・グラハムにスカウトされた」というサイドストーリーもつくられた。
ヒロ・マツダのもとでトレーニングを行った後、1972年にプロレスデビュー。フロリダでテリー・ファンクとタッグを組んだ関係から、1974年にはファンク一家の一員としてテリーに帯同し全日本プロレスに初来日。テリーそっくりのファイトスタイルから「右利きのテリー」とあだ名され、以降も同世代のジャンボ鶴田の好敵手として活躍。1980年の第8回チャンピオン・カーニバルでは兄貴分のテリー、アブドーラ・ザ・ブッチャー、ジャイアント馬場らを抑え決勝進出、ジャンボ鶴田と覇を争い惜しくも敗れる。この時期は、スレーターの日本における絶頂期でもあった。
「喧嘩番長」の異名通り私生活でも気性が激しく、仲間内での細かいトラブルは耐えなかったようだ。日本ではベビーフェイスのポジションだったがアメリカでは徹底したヒールで、1970年代はキラー・カール・コックス、プロフェッサー・タナカ、カウボーイ・ボブ・オートンらとのタッグで活躍した。
一時は次期NWA世界チャンピオン候補とも評価されたが、1981年に起こした交通事故の影響から精彩を欠き始めトップ戦線から消えていく。1986年にはパット・パターソンの招きでWWFに南北戦争の南軍キャラクターのベビーフェイスとして参戦。アイアン・シーク、ドン・ムラコらと対戦したが、目立った活躍は果たせなかった。
その後、WCWでディック・マードックとハード・ライナーズなるレッドネック系のヒール・タッグチームを結成した他、1990年代はテリー・ファンクの子分としてバンクハウス・バック(ジミー・ゴールデン)らと南部人ユニットを結成。1995年にはバックとのコンビでスティービー・レイとブッカーTのハーレム・ヒートからWCW世界タッグ王座も奪取している。
1996年に引退。2003年に元交際相手の女性をナイフで刺し殺人未遂容疑で逮捕される。
タイトル
NWA
- ミズーリヘビー級王座
- フロリダブラスナックル王座
- フロリダヘビー級王座
- フロリダ南部ヘビー級王座
- フロリダタッグ王座(パートナーはトール・タナカ)
- フロリダTV王座
- フロリダUSタッグ王座(パートナーはキラー・カール・コックス)
- ジョージアヘビー級王座
- ジョージアタッグ王座(パートナーはボブ・オートン・ジュニア)
- サウスイースタンタッグ王座(パートナーはポール・オンドーフ)
- ミッドアトランティック王座
- TV王座
- US王座
WCW
- WCW・USタッグ王座(パートナーはザ・バーバリアン)
- WCW世界タッグ王座(パートナーはバンクハウス・バック)
- IWA世界ヘビー級王座
など