Chapter Text
ソチ、ロシア、グランプリファイナル
「ダメだった…」
「なに言ってるの?ちょっと待って、勇利。君はグランプリシリーズをファイナルまで勝ち進んで、四位になったんだ。四位だよ。どんなにすごい成績なのか分かってるはずだ」
ピチットの宥める声が、端末の向こうから、無人のトイレに響いた。
「でも…」
勇利は、嗚咽をこらえようと口に手を当て、すすり泣きながらしゃがみ込んだ。もう一息で、オメガが表彰台に登ることが出来たのに。
「勇利、僕たちは君を誇りに思ってる。僕たちみんなだよ、次は僕も一緒だ。次こそは一緒に表彰台に登ろう。OK?」
ピチットは端末の向こうで呼びかけた。
その約束にかれの口角がわずかに上がり、涙を拭いて言った。
「うん…次は頑張るから」
「聞いて、今夜はチャオチャオとバンケットに行くんだ。でね、ちょっと羽目をはずしてみるといい。デトロイトに帰って来たら、僕がたくさんキスをしてあげるから、そしてね、カツ丼を、先週から食べたがってたカツ丼を、たくさん食べるんだ」
勇利はすすりあげながら笑い、もう一方の手を端末に持っていき、何千キロと離れた場所のピチットが、さもそこにいる様に触れた。
「約束だよ?」
「約束するよ。愛してる、勇利」
勇利はゆっくり息を吐いて通話を終え、しゃんと背すじを伸ばし、スチールのドアのロックを外し外へ出た。ありがたいことに、まだトイレには誰もいなかった。彼はメガネを外し、時間をかけて冷たい水を顔に浴びせた。彼は、本当に切実に、デトロイトのホームリンクと家族にメダルを持ち帰りたいと考えていたが、それは少なくとも、あと一年は先になりそうだった。もう一度、彼の心配は彼をより良くし、そして彼は全てを台無しにしていた。
「勇利、どこに電話してたんだ?探したぞ」
チェレスティーノはトイレから出てきた勇利を見つけてため息をついた。
「ピチットと話してました」
恥ずかしさで頭を下げて勇利は答えた。
チェレスティーノの視線は柔らかくなった。
「ああ、彼が言ったのと多分同じことをこちらからも言わせてもらう。お前は素晴らしかったし、そんなに自分に厳しくしなくてもいい」
コーチからよりも恋人からの言葉の方が、よりすんなり心に落ちた。
「日本選手権でちゃんと立て直して見せます…そうですよね?」
勇利はその言葉を自分自身で噛みしめる様に、強いて笑顔になった。
チェレススティーノはスケーターの髪をクシャクシャにして、微笑んだ。
「その通り。では、身なりを整えてドレスアップして。六時に部屋へ迎えにいく。いいな?」
勇利はシャワーを浴び、くたびれたスーツと古びてみすぼらしい青いネクタイに着替えるために、部屋へ戻った。彼のスポンサーからの収入は、主にチェレスティーノへのコーチ代、移動費用、衣装代にいき、スーツは二の次だった。彼は、髪を後ろになで付けることもせず。分厚いメガネをかけた。彼は、それがより印象的でなく、より近づきがたく見えるかもしれない、と考えた。
案の定、彼が会場に入った時に、スポンサー、他のスケーター、ジャッジでさえ、誰も彼に注目する者はいなかった。チェレスティーノはコネクションを広げるため、興奮して、同僚のコーチ(彼の知り合いで、かつては一緒にスケートをしたりもした)にあいさつをし、社交に加わり十分満足していた。勇利はそれを望んではいなかった。赤いテーブルクロスの上のシャンパンのフルートグラスがとても魅力的に思えた。空いたスペースのテーブルに歩を進め、最初のグラスを慎重にとり、一気に飲み干した。冷たい液体が喉を潤し、次に二杯、三杯、四杯と重ねた。最後のグラスを下ろした時、ようやくアルコールが回ってきた。
「ワォ、そんなにそのシャンパンが美味しい?それとも、この退屈なイベントを、ほんの少しでもマシにしようって考えなのかな?」
勇利は突然の声に驚いて瞬きし、パッと目を上げて、分厚いメガネを通して声の主をじっと見つめた。多分アルコールのせいで、彼の身体は熱くなり、目は大きく見開かれた。高い背丈、広い肩幅、銀色の髪は小ざっぱりと整えられ、前髪は片方に長く垂らされ、見事な青い眼は勇利に氷を思い出させた。彼の深いところのオメガがその男を追いかけ始めた。アルファに違いなかった。
「ええと、僕は、ええ」
男は笑って、勇利の向こう置いてあるグラスに手を伸ばし、わざとオメガのそばに近寄り、すっと隣に立った。
「あなたはなかなか面白い人物のようだ」
身体の熱さが増し、勇利はその場で気絶してしまうかと思った。
「ええと、どなたですか?」
「これは失礼。マナーを忘れてしまった」男は笑って言った。「私はヴィクトル・ニキフォロフ。ロシアスケート連盟のスポンサーだ。勇利、ずっと君のスケートを支援してきた」
「ぼく?!」勇利はおどろいて自分を指差した。「何故、こんな何処にでもいるスケーターを?今日の情け無い演技はご覧になったでしょう?」
ヴィクトルは勇利の手を取り、オメガを驚かせた。その握り方はすぐに柔らかくなり手の皮膚を親指で撫でた。
「何も恥じることの無い演技だったよ。美しかった。技術的には完璧ではなかったかもしれないが、芸術的で、私が今までに見たことが無いくらい素晴らしかった。ジャッジの目は節穴で、真の才能を見逃している。私はあらゆる動きに豊かな感情を感じ取った。美しいアリア、離れずにそばにいて。私のお気に入りだ」
アルファの笑みは勇利を不安にさせた。彼の手から自分の手首をそっと外した。
「ありがとうございます。もっと上達したいと思っています」
アルファは柔らかく勇利の顎を持ち上げ、まっすぐヴィクトルの青い目を見つめさせた。勇利は息を飲んだ。ヴィクトルは自分のグラスを置いて言った。
「君はパーフェクトだ。少々急ぎ過ぎていたら謝るが、君をディナーに連れ出す以外に、私のしたいことはない。ソチにはいつまで滞在の予定かな?」
おお、神よ。勇利は息が止まる程驚いた。アルファはどんな雑誌の表紙を飾っても十分な位のゴージャスな人物だった。どうして、彼の様な平凡で退屈な男に興味を持ったのだろう。
「済みません。明日の午後には飛行機に乗ります。...待っている人がいるので」
ヴィクトルの頭が下がり、勇利の中のオメガが揺れ動いた。アルファの鼻腔は拡がり、背中は真っ直ぐになった。
「そう...ですか、あなたの隣に立てるなんて、彼は世界で一番の幸運なアルファだ」
「ああ、いいえ、彼はベータです。それに幸運なのは僕の方です」
勇利はピチットの笑顔を思い浮かべ、神経質にメガネの位置を真っ直ぐにした。
ヴィクトルの手は、拳を握り細かく震えた。
「ベータ?私の親愛なる勇利は、貧弱なベータより、遥かに優れた相手がふさわしい」
勇利は眉を顰めた。
「いいえ、失礼ながら、ミスタ・ニキフォロフ、私の恋人に対する、あなたのコメントに同意する訳にはいきません。彼は貧弱なんかではありません。では、これで失礼します」
最後のシャンパンを飲み干して、勇利はヴィクトルに背を向けドアに向って歩き出した。勇利の心を占めるのは、まずフリースケーティングに対しての後悔。そして、ヴィクトルのコメントに対しての怒りだ。勇利は、そういった感情的な旋風を経験してきた。彼はそれらを眠って忘れ去り、この一週間のことを頭から取り払うつもりだった。
眠りは容易に訪れたが、夢の中に、絶えず青い目と銀色の髪が付きまとった。それは、何かの不吉な前兆のように感じられた。
眠りから覚めてもその感覚が残っていた。勇利はシャワーを浴び、ロシアを発って友達やピチットのところへ戻るため、荷造りを熱心に始めた。ドアを叩く音にもの思いが中断され、ため息が出た。チェレスティーノが、今回の最後の社交の場になる朝食に急ぐ様に、と呼びに来たのかも知れなかった。だが、彼を迎えたのは大きな青いバラの花束を抱えたホテルのスタッフだった。
「ミスタ勝生?」勇利はうなずいた。花束が彼に手渡された驚きに言葉が出なかった。「あなたにです」
「待って!どなたからですか?」
しかし、スタッフは勇利に注意を止めず、すでに歩み去っていった。混乱しながら、ゆっくりとドアを閉め、花束の中に小さなメッセージカードを見つけた。勇利はそれを表に返して、エレガントな手書きの文字を読んだ。
『勇利、
私の昨夜の振る舞いについて、心からの謝罪を申し上げます。
私は、決して、あなたやあなたのお相手を侮辱するつもりではありませんでした。
お詫びに、あなたがお発ちになる前に、コーヒーでもご一緒できませんか?
ロビーでお待ちしています。
ヴィクトル』
顔をしかめて、勇利はメッセージカードをくしゃくしゃにし、ゴミ箱に投げ入れ、花束は無造作に置いた。御免被る。法の下の平等にもかかわらず、アルファは未だに全ての物事に権利を与えられていると思っているに違いない。勇利は絶対に男とコーヒーを一緒にしたりはしない。たとえ、空港での待ち時間が長くなるとしても、早く出発した方がよい。携帯を掴み、勇利はチェレスティーノに、三十分後には出発できる旨の簡単なメールを送った。
次にノックが聞こえた時、勇利はそれがコーチであることを疑わなかった。それで、しっかりスーツケースを持ち、ドアを開けた。再び、そこにいたのはチェレスティーノではなかった。それはヴィクトルだった。勇利が口を開く前に、ヴィクトルはさっさと部屋に入って来た。昨夜の夢が、勇利の心に舞い戻って来た。
「花は届いたようだね」
ヴィクトルは、素早く、まだ捨てられてはいなかった花束に視線を向け言った。
勇利は唾を飲み込み、緊張と怖れで手には汗をかきはじめた。
「機内に、持ち込んではいけないと思ったので」
「そして、お前は考え無しに、花を捨てたと言うのか?」
ヴィクトルは疑わしげに、形の良い眉を吊り上げた。
「もう、行かなくては」
勇利はスーツケースの持ち手をしっかり掴んでドアを開けた。今回、ヴィクトルが掴んだのは勇利の首だった。彼の鼻は勇利のうなじにしっかり押し付けられ、深く匂いを嗅いだ。
「こんな風に、俺を拒むなんて、全く失礼にも程がある。勇利」彼は声を低くし、脅しをかけるように勇利にささやいた。「オメガはアルファと対になる様に造られている。それが世界の理(ことわり)で、常にそうだった。お前たちオメガは俺たちアルファの為に造られた。つがい、子を産む為に」
ヴィクトルが優しく勇利のうなじにキスをし、勇利はそれから逃れようと、唇をわななかせた。彼の心臓は激しく脈打っていたので、それが彼の胸から逃げ出してしまうかと思われた。「どうか、とにかく行かせてください。僕には関係のない話です」
ヴィクトルは落胆のため息をついた。そして、オメガの頬に指を這わせた。
「お前の様な、美しいオメガを迎えるのに相応しい扱いが望ましかったが、考えを変えて、とにかくことを進めなければならないようだ」ヴィクトルはポケットから白い布切れを取り出し、勇利の頬にキスをした。勇利が抵抗し始めるとすぐに、彼の首に回した手に力をこめ、彼をじっと見つめて言った。「お前は、最高に美しい子ども達を俺にくれるんだ。俺の勇利」
ヴィクトルは勇利の鼻と口を白い布切れで覆った。オメガの叫び声は、布とヴィクトルの手にふさがれてくぐもった。布切れに薬品の匂いを感じ、頭が回転し始めた。
「助けてよ、ピチット…」
彼の世界は闇に覆われた。