菊池菊崖
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きくち きくがい 菊池 菊崖 | |
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生誕 |
小川豊次郎 天保元年(1830年) 伊勢国河曲郡白子村(三重県鈴鹿市白子) |
死没 |
明治32年(1899年)10月9日 東京府(東京都) |
墓地 | 台東区天王寺墓地 |
別名 | 諱:武豊、字:宜仲、通称:孫左衛門・孫輔[1] |
時代 | 幕末、明治 |
活動拠点 | 武蔵国江戸新和泉町 |
配偶者 | 菊池保 |
子供 | 菊池鉄渓、晩香、東洲、中谷楓渓 |
親 | 小川市兵衛 |
親戚 | 菊池海荘(養父) |
菊池 菊崖(きくち きくがい)は幕末の商人。伊勢国白子の干鰯問屋小川市兵衛家に生まれ、紀伊国栖原菊池海荘の砂糖問屋河内屋孫左衛門店を継承した。
生涯
[編集]伊勢国河曲郡白子村の旧家小川市兵衛の長男として生まれた[1]。幼名は豊次郎[1]。小川家は江戸深川富川町の店舗で干鰯問屋[2]を営んでいたが、嘉永初年父市兵衛が死去し、家業が傾くと、隣に本店を構えていた同業者紀伊国栖原菊池家に拾われ、菊池海荘の砂糖問屋新和泉町支店に奉公し、遂に婿入りした[1]。
幕末、養父海荘が海防論を唱えて農兵の訓練を行うと、菊崖もその命で武芸を修行したが、番頭垣内晋兵衛・河内嘉兵衛等は海荘の出費を諌め、両者の板挟みとなった[3]。幕末の通貨問題による金価高騰に加え[4]、支店は慶応以降の外国糖の流入[5]、本店は漁民への前貸金の不良債権化等により経営難となり、支配人等により経営改革が提案され、本店を継いだ次男晩香、支店を継いだ鉄渓、父海荘とやり取りを重ねたが、明治10年代共に廃業し[6]、債務を整理した[1]。
晩年長男鉄渓に家督を譲ったが、先立たれ、家事に復帰した[3]。俳諧と剣の観賞を趣味とし、1899年(明治32年)9月29日病に罹り、10月9日死去した[3]。享年70[3]。天王寺墓地の海荘墓域に葬られた[7]。
次男晩香は本家を継ぎ、四男は中谷家に入り、長男鉄渓・三男東洲は早世したため、晩香は鉄渓の娘孝を養育し[3]、1906年(明治39年)8月[8]早稲田中学生山本武芳と娶せ、鉄渓の跡を継がせた[3]。
親族
[編集]- 実父:小川市兵衛(伊兵衛[7])
- 養父:菊池海荘(孫左衛門、保定)
- 妻:菊池保(やす) - 海荘の娘[9]。
- 長男:菊池鉄渓(孫左衛門、武恒)[3]
- 次男:菊池晩香(三九郎、武貞) - 早稲田大学教授。
- 三男:菊池東洲(武虎)[3]
- 四男:中谷楓渓(藤楠、武藤)[3]
脚注
[編集]参考文献
[編集]- 菊池三九郎『黄花片影』菊池三九郎、1918年4月。NDLJP:926715/26。
- 山口啓二「歴史と現在、そして未来 ―南紀栖原の豪商菊池家の文書整理を通じて見えてきたもの―」『名古屋大学日本史通信 ばさら』第2号、名古屋大学大学院文学研究科、1999年。
- 曲田浩和「近世後期の魚肥市場としての名古屋・四日市」『知多半島の歴史と現在』第19号、日本福祉大学知多半島総合研究所、2015年10月、NAID 120005724563。
- 人事興信所『人事興信録』(第7版)人事興信所、1925年8月。NDLJP:1704004/1250。
- 上谷桜池. “菊池菊崖”. 谷中・桜木・上野公園裏路地ツアー. 2018年4月1日閲覧。